皆さんこんにちは。「中野和幸 武士道精神に生きる」です。
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今回は、幕末から明治にかけての大きな転換点、廃藩置県をめぐる西郷隆盛と島津久光の関係に迫ります。
この出来事の裏には、単なる政策の違いではなく、「武士道精神」と「信義のすれ違い」があったのです。
現代を生きる僕たちにとっても、人間関係や信頼の在り方を考える上で、非常に多くの学びがあります。

信義って、ただの「正しさ」じゃないんですね。今回は、西郷隆盛と島津久光のすれ違いから「義を通すとは何か」を一緒に考えてみましょう。
明治4年―突然の廃藩置県が告げられた朝
廃藩置県とは何だったのか?
明治4年(1871年)、政府は全国の藩を廃止し、県に再編する「廃藩置県」を断行しました。
これは、日本を中央集権国家として強化するための大改革であり、「国家の近代化」という名のもとに実施されました。
しかしこれは、地方の大名にとっては伝統や支配権を失うことを意味する重大な決定だったのです。
島津久光の「寝耳に水」―そして“誤った報告の仕方”
西郷隆盛が仕えた薩摩藩では、名目上の藩主は島津忠義でしたが、実質的な権限を握っていたのはその父・島津久光(国父)でした。

明治4年、政府が廃藩置県を断行するにあたり、西郷は事前に久光へ相談することなく、その決定を推し進めました。
この一報に、久光は「寝耳に水」と激怒したと言われています。

僕が島津久光だったら・・・正直、怒るのも無理はないとは思います。
ただ、西郷が全く無視していたわけではありません。
大久保利通が一切の事前報告をしなかったのに対し、西郷は「義理を通すべきだ」との思いから、決定後に久光のもとを訪れ、直接説明に向かいました。
しかし、ここにこそ大きな落とし穴がありました。
西郷の報告は、すでに決まった事実を“上から通達する”かのような一方的な説明だったのです。
その口調や態度には、かつて久光のもとで忠義を尽くしていた者の“謙虚さ”は見られず、あくまで「国家のため」という大義名分を背負った、中央政府の代表としての姿勢が色濃くにじんでいました。
久光にとってそれは、「忠義を尽くされるべき自分が見下された」という屈辱以外の何物でもありません。

武士道における「義理」とは、単なる報告義務ではなく、相手の面子・立場・心情に対する深い配慮と敬意を持って伝えることです。
つまり、西郷が抱いた誠意は、本当の意味で久光には届いていなかった――
ここに、西郷隆盛と島津久光、二人の「義」がすれ違い、信義が破綻する決定的な瞬間が生まれたのです。
武士道精神における「義」―そのぶつかり合い
「義」とは何か?

武士道における「義」とは、正しいと信じる道を貫くことです。
- 西郷隆盛にとっての「義」は、日本国家の統一と安定
- 島津久光にとっての「義」は、国父としての矜持と、主従関係の信頼
どちらも間違っていない。
しかし、それぞれが違う「義」を貫いた結果、深い溝が生まれたのです。

「正しい行い」と「信頼される行い」は、必ずしも同じではないんですね。
もし中野和幸が西郷隆盛の立場だったら
現代のビジネスマンとして考える「誠意の伝え方」
僕が西郷隆盛の立場だったら、たとえ難しくとも、廃藩置県の断行の前に久光に正面から話を通したと思います。
「久光公、今こそ国家の未来のため、ご理解を賜りたく存じます――」
そう、真摯に語りかけ、理解を得ようと努力したでしょう。
武士道とは、勝利や効率ではなく、「相手を敬い、信を貫くこと」。
それを実践していたなら、このすれ違いは避けられたかもしれません。

この歴史から学べること―今に活きる武士道精神
結果よりも、過程に「誠」があるか
現代でも、「結果が良ければすべて良し」という風潮があります。
でも、人間関係や信頼関係は、結果ではなく“過程の誠実さ”で決まるのです。
西郷隆盛のように国家を背負う志があっても、もう一歩、相手の誇りや立場を思いやる配慮があれば、鹿児島の明治以降の混乱は、少しは和らいでいたかもしれません。

もし、あなたが西郷隆盛だったら・・・どう振る舞っていましたか?
まとめ

今回のテーマは、「西郷隆盛と島津久光の信義のすれ違い」でした。
これは単なる歴史の一幕ではなく、武士道精神が問う「信義・誠意・義」の本質を描いたものです。
現代に生きる私たちにも通じる学びが、この史実にはあります。

この記事が、現代の「信じあう力」を考えるきっかけになれば嬉しいです!
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